2013-05-14 第183回国会 衆議院 国土交通委員会 第11号
私は、人間存在というのは、自立した自分自身をつくるということと同時に、東洋哲学におきましては、人間というのはジンカンというふうに読みます。
私は、人間存在というのは、自立した自分自身をつくるということと同時に、東洋哲学におきましては、人間というのはジンカンというふうに読みます。
自然とは敵対するものではなくて融合するものだという東洋哲学の真髄を今こそ思い出して、謙虚な心で自然と向き合う、自然とつき合うということを、初心に戻って再認識する必要があるのではないかと思います。 本委員会は、教育、文化芸術、スポーツなどとともに、科学を所管する委員会であります。だからこそ申し上げたいのは、科学とは、決してすべてを想定のもとに置くという前提に立っていないのではないかということです。
私は、東洋哲学といいますか、人間と自然が共生をするという、そういう考え方の下に日本建築も庭園も全部できているわけですね。そういうことを、美しい国をつくるということならば、もう一度そういうことにしっかりと目を置いていただきたいと思いますが、総理、どうですか。
ある意味では、コミュニタリアニズムの以上のような姿勢は、東洋哲学では儒教の姿勢に近いかもしれません。すなわち、儒教は徳を説く一方で、法の導入と執行を強行する法家に反対しました。法よりも道徳を主張する点で、コミュニタリアニズムは儒教に近く、だから道徳の過度な法制化には反対することになるのです。
人間観ということについて言えば、むしろ人間というのは、東洋哲学では、人と人との間、ジンカンというふうに読む。あるいは、和辻哲郎さんが、「人間の学としての倫理学」で、人倫というのは、ともがらの中からの人間というものを考える、今でいえば共生社会というものとも言えるかもしれません。
私は、東洋哲学というのは時所位即応の原則という気持ちでいるんですが、要するに時と所とそれとその地位に応じてそれなりの言動ってあるべきだろうなと思うんです。 そういった意味で、外務大臣として前線で外交交渉をやられるわけなんですね。我々の、ある意味で日本国民の国益を担って外交交渉をやっていかれるわけなんです。その中では、いろんな機微にわたってやりとりがされると思うんです。
○松本参考人 アイデンティティーという言葉は確かにこなれの悪い言葉でありまして、戦前にも、西田幾多郎という日本哲学、東洋哲学を代表する哲学者が自己同一という言葉を使いました。これは何が何だかわからないんですね。優しく言うと、自分が自分であることということを自己同一性という言葉で言いました。 私たちが考えるのには、国民的な一体感というものがどこにあるか。
りまぜてできてしまっているものですから、なかなか昔のままの、ちょうど石橋先生のような、あるいは私も多少その世代に入るかと思いますけれども、この辺の世代である程度戦後に一部の教育でも受けていた者はまあまあと思うのですが、やはり戦後生まれの方の方がもう今ほとんど大勢になってしまったわけでございますから、その方々の教育というのは、今の話で、必ずしもそういうよき日本の民族の心というようなものが、あるいは東洋哲学
そうした中では、カンボジアは明石康代表による粘り強い交渉という、ある意味では東洋的なやり方が成功した、PKO活動の中では一つの成功例と、こういうことになっておりまして、これも武田先生御指摘の東洋哲学というか、そういうものが国際平和に貢献している一例ではないかと思っております。
それで、これは東洋哲学、我々皆東洋人でありますから、結局この中庸によるというのが一つの哲学だから、この際これでいかれたらどうですかというアドバイスをやって、私は別に孔子のつもりでやったわけではありませんで、日本の前途を開くために、ここで何とか中選挙区をやめて新しい制度にいっていただきたいという、その突破口を開くための提言をしたわけで、あのままでやれるとは私は思っておりません。
いかに高邁、高尚な議論、明快、明晰な議論を尽くしていっても、究極はほどよいところに落ちつくのだというのが一つの東洋哲学である。そういう意味で、私どもの精神をお酌み取りいただきまして、ここで日本の将来のために日本の現在の政治家諸公が中庸の道をとって、日本の将来を開くという御決意をぜひいただきたいというふうに思う次第でございます。 甚だ簡単でございますが、冒頭に私の個人的意見を申し上げました。
○吉田達男君 李下に冠を正さずという東洋哲学もありまして、決定的な過ちをしてはならぬけれども、過ちを疑われるような者は指導者としては怪しくなると、こういうことであります。それは政治の道においても企業の道においても同じかと思いますが、そういう点で今の指導体制について懸念がなされていることは御承知でございます。
環境庁長官は東洋哲学の大家だと聞いておりますから、ここでひとつ一般参加の道を開くということだったら、ひとつ演説をしてください。私の残り時間はあと四分ですが、全部差し上げます。どうぞ。
○国務大臣(林大幹君) 石渡先生から大変重い質問をいただきまして、現実の政治家として政治活動をするということを踏まえて、今の先生の御質問の中における東洋思想、東洋哲学をどう見るのかということになりますと、率直に言いまして大変これ重い御質問でございまして、私としてもこれは非常に一般論として申し上げて、そしてあと個々のことにつきましては、それなりの責任を持って進めていくということしか言えないと思うんです
先ほど東洋哲学をいろいろ御披瀝なされましたけれども、人間の死、生という問題は最も厳粛な問題であるわけで、いたずらに時を過ごすべきではないと私は考えます。そういう点ではいたずらに論争すべきでないし、まして控訴などするべきではないと厳しく要求しておきたいと思います。 長官は先ほどの発言の中で、調和することが大事だということも申されました。
それから気の理論体系など、そういった東洋医学、東洋哲学的な理論で貫かれているわけであります。 知ったかぶりをするわけではございませんけれども、ちょっとちんぷんかんぷんなことであるという意味で名前を挙げますけれども、黄帝内経とか難経とか金匱要略とかさらには傷寒論、そういった講義は、日本の今御報告いただいた三十三大学の中ではそういう講義をやっていることは非常にまれだと思うんです。
その前を利用して、三十、一日と私はワシントンでできるだけ多くの政府要人並びに議会人と会って話をしたいと思っておりますけれども、そこで私は、やはり同じというわけにはなかなかいかないよ、歴史も違い、あるいは地理的環境も違い、あるいは哲学も、正直、日本とアメリカでは違うわけでございますから、キリスト教を基礎にしている西洋哲学と、儒教、仏教を基礎としている東洋哲学、やはりそれぞれ違うわけでございますから、そういうこともよく
それは、「他国民や他民族の立場に立って、その喜びと苦しみを分かち合う心ばえ」であり、東洋哲学では、孔子の「己れの欲せざるところを、人に施すことなかれ」に通ずるものであります。この平凡な常識へ不断に回帰しこれを実践しつつ、人と国家と国際社会に対し行動することこそ、世界に通用する新しい今日の日本人の見識と言えましょう。そこに向かって、我々は前進しなければならないと信ずるものであります。
それは、「他国民や他民族の立場に立って、その喜びと苦しみを分かち合う心ばえ」であり、東洋哲学では、孔子の「おのれの欲せざるところを人に施すことなかれ」に通ずるものであります。この平凡な常識へ不断に回帰し、これを実践しつつ、人と国家と国際社会に対し行動することこそ、世界に通用する新しい今日の日本人の見識と言えましょう。そこに向かって、我々は前進しなければならないのであります。
今総理の言われる考え方については一応理解ができるのでありますけれども、しかし、総理の言う東洋哲学思想、そういう一つの流れとか、それを訴える、説く学者、それを説きながらも、かつては大東亜共栄圏というアジアの共栄圏を目指す一つの理論体系をつくって、いわば侵略戦争の旗振りをしたという傾向も過去にはあったと言わざるを得ないと私は思うのであります。
今回の総理の施政方針の演説を承って、特に相当スペースを割いて、いわば国連演説に引き続いて東洋文明、東洋哲学の真髄に触れて述べられた。私は、この演説を聞いておりまして、国連演説に引き続いての施政方針の演説は、いわば総理のこの哲学に関する完結編ではないか、こんな感じが率直にいたしたのであります。